樅の木

あたまの悪い話がしたい

 背後で呻くような声がした。七海は振り返って、あー、だか、うー、だかよく分からない、意味のない音を出す塊をひと撫でする。するとそれは、すぐに大人しくなった。ベッド下に丸まって落ちていたシャツを適当に羽織る。着たときは皺なんて無かったのに、すっかりクシャクシャだ。外に出るわけじゃないしどうなったって構わない、どうせ洗えば皺は寄る──大雑把な考えを丸写ししたかのようで、七海は小さく苦笑いした。几帳面、頑固、神経質。そういった「頑な」な言葉を当てがわれることが多いけれど、案外大雑把な一面だってあるのだ。だからこそ、この昨日一日中着ていたシャツにもためらいなく袖を通せる。この後どうせ、シャワーを浴びるので。
「なに、もう起きたの」
 塊がもぞもぞと動いて、言葉を発した。びよんっと突っ張るように布団から腕が伸びる。凝り固まっていた筋が、気持ちよさそうに伸びていた。
「まだ寝ていてもいいですよ、少しだけ」
「はは、少しだけなんだ」
 んー、と脱力した息を背中で聞きながら、七海は立ち上がって窓へ近づく。遮光カーテンで閉じられていた部屋の中は暗い。しかしカーテンの裾から漏れ出ている光の具合を見るに、太陽はすっかりと昇っているのだろう。カーテンをそうっと引っ張るとやっぱり、燦々とした光がたっぷりと入ってきた。
「いい天気だね」
「ええ。だからシーツも何もかも、まとめて洗おうかと。今日」
「あー……だから、少しだけなのか」
 光が目に慣れたところで、シャッといきおいよくカーテンを開け放つ。眩しい。寝起きの気怠さもきちんとあるけれど、しかしこういうのは思い切りが大事だ。明るくなった部屋を見渡せば、あちこちに服が散らばっていて、シーツも捲れてずり落ちかけている。塊を覆う布団も多分、縦と横が逆になっている。なんとも言えない惨状を目の当たりにして、けれども悪い気もしない。布団からようやっと出てきた五条の顔が、珍しくたいそう浮腫んでいたからだ。それでも眉目秀麗さは大きく損なわれないのだから、腹が立つやら可笑しいやら、である。
「アナタ今すごく不細工ですよ、顔」
「どこかの誰かさんのせいだっつーの」
「はいはい」
「オマエだってよれよれのシャツにパンツ一丁で、すっごいだらしない。髭も生えかけてるし」
「嫌いじゃないくせに」
「好きなんて言ったことない」
「嫌いだとも言われたことない」
 馬鹿みたいな軽口の応酬を、これまで何度繰り返してきただろう。お互いにいい歳をした大人なのに、そのレベルは出会った頃からあまり変わっていない気がする。ケラケラと機嫌よく声をあげて笑って終わりにできるあたりは、成長したのかもしれない。昔だったらそのまま喧嘩に発展することも多かった。それもそれで悪くはなかったと今なら思えるのだけれど。
「起きる? 起きようか」
「まだいいですよ。先に服を洗濯しますし」
「でも七海は起きるんだろ。よく寝たし僕ももう起きる」
 あんまり寝過ぎても疲れるじゃん。寝癖だらけの頭を揺らして、五条は上半身を起こした。昨夜きちんと髪を乾かす前に、七海がベッドに引きずり込んでしまったせいだ。自分のせいで顔を浮腫ませて、四方八方に髪を散らす姿のどこに、悪い気がするというのだろう。
「あれ、これどっちのだ? 七海のか」
 丈みじかぁい。寝転びながらスウェットパンツを履いた五条は、見せつけるように天井へ足を伸ばした。本来くるぶしあたりにあるはずの絞りが、ふくらはぎのやや下で止まっている。
「丈が短いんじゃなくて、アナタの足が長いんです」
「んふふ、だよね」
「毎回律儀に言わせないでください」
「毎回律儀に言ってくれるんだもん」
 だもん、って。七海は呆れの形をしたため息をついた。いい歳した大人で「だもん」を自然に使う人を、七海は五条以外によく知らない。
「ウエストはちゃんと入るし、まぁいっか」
 ごろん、と起き上がって、欠伸をひとつ。大きく開けられた口が元の形に戻ったところで、七海は屈んで軽く唇を寄せた。見下ろした口角が、機嫌のよい形に上がる。
「シャツ着ないんですか」
「すぐ洗濯するんだろ。いいや」
 剥き出しのままの上半身が、いやに眩しい。五条は髪やまつ毛だけでなく、肌も白い。デンマークの血が少し入っている七海も白いが、また異なった白さだ。七海は赤みがよく見える白さで、五条は文字通り白い。儚げに見えて、しかし筋肉はしっかりと発達しているため、決してか弱くは見えない。体術をメインとする七海は全体的に肉付きがいいが、五条のそれは必要最低限を、しっかりと、という感じだ。
「シーツ剥がしとく? 先に」
 床に散らばっていた服をかき集めていると、五条はようやっとベッドから這い出て、垂れ落ちていたシーツを引っ張っていた。もうゴロゴロするつもりはないらしい。あぁお願いします、と返答をして、ゴミ箱に入れ損ねていた用済みティッシュを拾って投げ入れる。ここまで自分は大雑把だっただろうか。いいや、大雑把というより面倒臭がりといういうべきか。そこまでではないと思うのだけれど、どうにもベッドの周りでは、それが簡単に露呈してしまうらしい。
「これどっちのだろう」
 不意に、先ほどと同じ呟きが聞こえた。今度は何だと五条の元へ近寄ると、何かをつまんだような形をした人差し指と親指が、ずいっと寄せられる。
「何です」
「これ。髪の毛」
 長さ五センチほどのそれは、どうやらベッドから拾ったものらしい。抜け毛かと自分の将来にため息を吐きたくなったけれど、あれ、と七海は視線を寄せる。
「アナタのじゃないですか?」
 七海は肌の色こそ白いが、体毛は全体的にブロンドの色をしている。この髪の毛のように白い毛が生えている部分に、心当たりはなかった。むしろこのような白い体毛が生えているのは五条の方だ。彼の身体は、特徴的な瞳を除けば全体的に色がない。本当に白いのだ。
「えぇ? 金色じゃない……?」
「私には白に見えますけど」
「僕の抜け毛だって言うの⁉︎」
 五条は窓のある方向へつまんだ指を向け、光に透かす。七海も一緒になって見たけれど、白っぽく見えることに変わりはなかった。
「ほら! このへんとかちょっとキラッとしてて金っぽいっていうか……いや、白? っていうか透明……分かんない。金だろもうこれ」
「白ですって」
「分かんねーだろ! 七海の髪の毛に一本くらい白髪が混じってるかもしれないじゃん」
 それがたまたま抜けたのかもしれないじゃん! 寝起きでどうしてそこまで元気な声が出るのか不思議だ。七海は面倒臭そうに眉を寄せた。ああやっぱり、ベッドの近くは面倒臭さが容易く出てしまう。
 大体、髪の毛が一本抜けたくらいで大騒ぎしないでほしい。人間一日何本の髪の毛が犠牲になると思っているんだろう。数にすれば恐ろしいくらいには抜けているのに。本当にその分生えてきているのか疑問視するほどだ。そうでなくとも、七海はいつの頃からか、寝起きに枕元に散らばる髪の毛を見てげんなりすることがままあった。ようは、下手をすればこれは七海にとって大変デリケートな話なのだ。
「そういえばオマエのおじいちゃん、だっけ? デンマーク人なのって」
「はい」
「おじいちゃん、髪どうなの? 白い?」
 どうだっただろう。七海が最後に祖父に会ったのは、まだ小学生の頃だ。たしか彼はスキンヘッドに近かった。けれど、柔らかな口元を覆う口髭は白かったように思う。そもそも祖父の娘──七海の母親は綺麗なブロンドヘアーだった。だから彼らの血が少し色濃く出た七海自身も、加齢とともに白くなる可能性の否定はできない。白かったかもしれない、と答えると、じゃあやっぱ分かんないね、と五条は髪の毛をゴミ箱へ放った。
「髪色が変わるってどんな感じなんだろうね。僕はずっと変わんないから、分かんないや」
 へらり、と抜けたような、どこか一歩引いたような笑みを浮かべて五条は言った。
 好きじゃない。七海はそう思った。自分よりもはるかに豊かな表情たちの中で、とりわけこの笑みだけは正面から見ることが苦手だった。なのに、五条はそれをあまりにも自然に見せてくる。違和感なく見せてくるからこそ、七海には違和感でしかなかった。
 七海は出戻りの身だった。それに対して、五条は変わらずこの特異な世界の中心に身を置いている。そこへ来る者も少なからずいたし、去る者もそれなりにいた。七海はそのどちらも経験して、今ここにいる。自分の意思で離れたし、自分の意思で戻ってきた。
 七海の一度目の去り際に、五条に言われた言葉がある。「僕はずっとここにいる」──文字通り、五条はずっといた。どれだけ人の出入りがあったとしても、彼自身が離れることはできない。「そういうもの」らしい。言葉だけをなぞれば、七海にも理解はできた。
 それに、五条はこの世界で「やりたいこと」があるという。五条は彼の意思でこの世界を離れることはできないけれど、意思をもって生きていた。理不尽にも思える生き方を、五条は自分の意思でしっかりと上塗りしている。だからそれを不自由だと言うのは、お門違いでしかない。五条はそんな顔をしていない。離れたって、窮屈さはある。七海はそれをよく知っている。
 五条の言葉に縋って戻ってきたわけではない。けれども、心のどこかに在り続けたことは確かだ。
 ずっといる。ずっと離れない。
 なのに五条は時々、自分自身をどこか別のところに取り置こうとする。自ら一線を引いて遠ざかるような素振りや言動をされることが、七海にはひどく堪らなかった。違和感として覚えるようになってしまった。とくに昨夜はあんなに近くにいて、あけすけにお互いを晒していたというのに。
 だからといって、ずっとここにいろとは口が避けても言わない。それは七海が言ってはならない。彼の持つ奇異な見た目も、稀有な性質も、否定はできない。けれども、ずっといるという御守りのような呪いの言葉を握らせておいて、近づけば離れていくような仕草が、気に食わない。そう、単純に七海が気に食わないのだ。
 けれども交わしたいことはそんな難しい話じゃなくて、もっと。
「変わらないわけないでしょう」
「うん?」
「アナタ、昔よりも肉付きがよくなった」
「え? 太った?」
「そうではなく。背ばかりが発達したわけじゃないでしょう。アナタも私も」
「うん。オマエのゴリラっぷりには負けるけど」
「背が伸びなくなった代わりに、肉体へ栄養素が回りやすくなっているんです」
「そうだね」
「……あと皺」
「皺⁉︎」
「目尻のあたりにうっすらと。私は骨格もあるので寄る方ですが」
「うそ、マジで? ちりめん皺? ヤダ!」
「逆に不思議なんですけど、私よりも年上できちんと歳も重ねているのに、どうして自分には老いが来ないと思っているんですか。そんな都合のいい話、あるわけないじゃないですか」
 はあ、と七海はこれ見よがしに大きなため息を吐いてやる。離れていかないのなら構わない。
「でもあの毛は七海のだと思う」
「いいえ、あれは五条さんのです」
 捨てたばかりの髪の毛をゴミ箱から拾おうとするから、その背中をペチンと叩く。イテェ! と大きな声で喚くも、その顔は愉快そうに緩んでいた。鳥の巣みたいになったクシャクシャの真っ白な頭を雑に梳く。
「あー……ったく、なんで僕たちこんなガキみたいなことやってんの」
「さあ」
 馬鹿みたいな話がしたい。頭の悪いやり取りがしたい。子どもだって笑われてもいい。笑い返してやる。それができるくらいには、ふたりは大人になった。昔から変わらず、ずっと、これからも。

Fin.

2025.01.01 Web再録