樅の木

春のゆくえ

3月19日

 
 軽快なメロディとともに、扉が左右に開いた。夜にもかかわらずハキハキとした口調で告げられる駅名を、同じように心の中で重ねて繰り返す。〇〇、〇〇です──。
 もうアプリやネットを見ずとも、この駅に来られるようになった。今日だって一度も調べてはいない。何行きのどの車両にのって何番目のドアから降りれば改札が近いのか、改札を出た後はどの出口から出れば良いのか。そのあたりの検討はすっかりついているけれど、確認する癖はまだ抜けない。
 それもそうだ。この駅に降り立って、向かう先のマンションに訪れるようになったのはここ一年ほどの話なのだから。

 ふうわりと取り巻く夜風に身を切るような鋭さの欠片もなく、身を縮こめることももうなくなった。今は季節と季節の狭間で、ちょうどうつろうタイミングだ。肩をすくめて顔の半分を埋めるためのマフラーは、今日は巻いていない。最後にここへ来た時はまだ、もこもこのダウンを着込んでマフラーも巻いていたけれど、もう必要はなくなるだろう。帰ったら洗濯して、クローゼットの奥に仕舞ってもいいかもしれない。まだほんの少し肌寒くなる日はあるだろうけれど、きっと来週には桜が芽吹き始めるほど、うんとあったかくなっている。
 爆豪が雄英高校を卒業して、ちょうど季節が一周した。
 学生の頃──それこそ十六の頃からなんだかんだ世話になっていたジーニアスオフィスに就職した爆豪は、卒業と同時に事務所の近くへ居を構えた。若いうちはがむしゃらに働いてこそ、なんていう古めかしい価値観が真っ当かどうかはさておき、できることはできるうちに自分のものにしておきたかった。なるべく、たくさん。時間は有限だ。そう考えて、生まれ育った場所から少し離れた土地に生活の拠点を置くことにした。そこに迷いはなかった。
 ひとつずつ過ごしてきた春も夏も秋も冬も、それぞれ異なった忙しなさと真新しさがあった。それはまだインターン生としてジーニアスオフィスで経験してきたどれにも、似るものはない。まだ君は知らないだろう、と所長のジーニストが次から次へと見せてくるものに食らいつきながら、噛み砕く日々だ。毎日見える景色が変わることに、爆豪の勝ち気な性分はよく刺激を受けた。一分一秒が試されていると感じるのは、プロヒーローになってからなおのことだ。そうやって過ごしていれば一日、一ヶ月、一年なんてあっという間で。
 駅から十分弱ほど歩けば、十階建てほどのマンションが見えてくる。閑静な住宅街ではあるけれど、このマンションに至るまでの道にはコンビニもスーパーも、ドラッグストアもある。飯屋は牛丼チェーン店とテイクアウトの弁当屋が一軒ずつ。なおざりになりがちな生活を営まざるを得ないあの人──相澤が、この場所を選んだ理由がよく分かる。立地も良くて、最低限生活には困らない程度の店は揃っていた。
 目的地であるマンションのエントランスに近づいた。右側の壁に埋め込まれている銀色のタッチパネルに触れ、三つの数字を順に押す。七階の、五つ目の部屋。この部屋の持ち主は中にいるらしいので、躊躇うこともなく「呼出」のボタンに指を置く。押し込むと、ピンポーン、とどこからか明るい音が鳴った。
『はい』
 プツ、と電波が繋がる音の後すぐに、返事があった。爆豪は一歩だけ後ろに下がって、カメラのレンズがある黒い部分に視線を移す。
「しょーたさん、来た」
『うん、上がっておいで』
 ずいぶんとくだけた話し方に、ト、と少しだけ心拍数が上がった。プライベートな空間にいるからだろう。緊張も厳しさもとれた口調は、爆豪が学生だった頃にはあまり聞くことはなかったものだ。
 エントランスの内へ入り、七階を目指す。エレベーター内で順調に上がっていく数字を見つめ、一瞬の浮遊感の後、開いた扉から五つ目の部屋へ足を踏み出した。
 今度は玄関扉の横のチャイムを鳴らした。まばたきのうちに鍵の回る音がして、薄くドアが開いた。爆豪がエントランスからここに上がってくるまでの間、すぐに開けられるようにとここで待ってくれていたのだろう。思い返せばこうして訪れた時に、ドアの前で待った記憶はあまりない。いつも笑ってしまいそうになるくらいすぐに開いていた。相澤はいつも、このドアの向こうで待ってくれている。
「はえーよ、鍵」
「そうか? ほら、入って」
 三和土から身を乗り出してドアを押さえている相澤の脇腹をつん、とつつきながら中へ身体を滑り込ませる。履いているスニーカーを脱ごうと足元へ視線を落としたところで、爆豪はふと動きを止めた。相澤の身につけるものの大半は黒色をしているが、同じ黒色でもこれを履いている姿を見る機会はあまりない。
「……革靴?」
 黒い革靴が三和土のへりに踵をつけるようにして、静かに置かれていた。相澤がヒーローコスチュームとして履いているいつものブーツの隣で、照明の光を受けてつやつやと光沢を帯びている。
 珍しいな、と思った。スニーカーなどならともかく、革靴なんてかしこまったものを身につける用事があったのだろうか。
「ああ、今日卒業式だったんだ。雄英の」
 相澤は今年、一年生の担任を受け持っている。けれど卒業式には教職員がほとんど全員出席するため、相澤も例外なくスーツを着て出席してきたという。卒業生とその学年の担当教員たちの胸に飾られるコサージュは付いていないものの、着ていたのであろうスーツ一式が、向かった先のリビングの壁に掛けられていた。
 そうか、とスーツに視線を向けていた相澤が、ぼんやりと呟く。
「お前たちが卒業して、もう一年経つんだな」
 早かったな、早かった。独り言のような言葉たちが、ぽつりぽつりと落とされた。スーツの向こうに見える何かを見つめるように、焦点を絞って目の奥に焼き付けるみたいに、相澤はすうっと目を細めている。
 本当に早かった。あっという間だった。爆豪も隣で小さく頷いた。
 けれどもそれは、振り返ってみればあっという間だった、という話であって、その最中にいた時はそれなりに大変だった。時間の流れに飲まれないように、見ていたいものを見逃さないようにとじっと立ち止まって目を凝らす必要がたくさんあった。
 爆豪の卒業後、相澤と爆豪は「お付き合い」というものを始めた。出会いと別れ、そして変化の季節である春の、陽気の良い日が続いていた頃の話だ。
 しかし春を迎えても相澤は変わらず教職を務める一方で、爆豪は実家や雄英、そして雄英の近くにあるこの相澤の自宅からも離れた場所で生活を始めた。その生活を選ぶことに迷いはなかったことは事実だけれど、何も思わなかったわけではない。慣れない生活を始めた自分と、多忙を極める相澤。ふたりの間にはきっと、お互いのことをよく知るための時間や触れ合うための時間を多くは取れないのだろうということは想像できた。恋人一年生の自分たちに必要な、お互いの一歩一歩の踏み出し方、その歩幅を確かめるための時間も何もかも。学生だった頃は何もなくとも、その姿を見て、言葉を交わすことができたのに、そんな簡単なことですらあっという間にままならなくなった。現に、こうして合間を縫ってはお互いの家を行き来したりしているけれど、今回は逢瀬のない間に季節が変わろうとしてしまっている。
 だからささやかな触れ合いの時間の中で目を凝らす必要があった。けれども意外なことに、焦ることはほとんどなかったように思う。
 こと「お付き合い」ということついて未熟である爆豪に対して、相澤(交際経験はあるらしい)が急かしてくるような素振りを見せてきたことは一度もない。自分負けん気の強い性格であることを爆豪は自覚しているので、正直なところを言えば、相澤が求めてきた時はその手を取って応えるつもりではあった。拙いかもしれないけれど、そのくらいの覚悟は爆豪なりにあった。
 それでも相澤は急かすどころか、びっくりするほど丁寧にふたりの距離を縮めようとしてきた。手を繋いでみないか、と正面切ってお伺いを立てるように言ってきた時は、思わず笑ってしまったくらいだ。そして上に向けられた手のひらがあんまりにもゆっくり近づいてきたものだから、爆豪はさっさと手のひらを重ねて力を込めてやった。
 すると、あっさりと重なった手たちに相澤は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに眉尻を下げて、何故だか「ありがとう」と言ったのだ。礼を言うその顔がとてもやさしくて、目が離せなくなって、腹の奥底からじわじわと温かい何かが湧き上がってくる心地がして、少し遅れて気恥ずかしさがやってきたことを覚えている。単純に手を繋ぐことくらいでこんなに緊張をするとは思わなかった。相澤がそんな顔をしたせいだと思っている。
 手を繋いで、それが今度は指同士が絡まるようになって、家の中だけだったのが外でもこっそり繋ぐようになって。何かひとつずつお互いが歩み寄ろうとするたびに「どうだろうか」と目線が合うものだから、爆豪に焦る必要は何一つなかったし、立ち止まれる余裕はいつも用意されていたし、ついて行けないなんてこともなかった。
「外、寒くなかったか」
 振り返った相澤の手が、スッと爆豪の頬に添えられる。これも他のカップルに比べたら時間はかかったのかもしれないけれど、相澤と爆豪はちゃんと、当たり前のようにできるようになった。
「寒くねぇ。日中だってかなりあったかかっただろ」
「そうだな、暖かかった」
 よかったよ、晴れて、と笑うから、爆豪もそうだな、と答えた。去年の自分たちの卒業式も晴天だった。春の良き日に旅立てたことに、相澤はこうして同じように笑って喜んでくれていたのだろうか。
 添えられた手と自分の頬の温度がゆるやかに混ざって気持ちがいい。冬の間はこれにも時間がかかっていた。ここまで混じっているのだから、いっそ境目もぜんぶ溶けてしまえばいいのに、と思う。
 すり、と押し付けるみたいにして爆豪からもう少し擦り寄れば、相澤はフッと目尻を緩めた。そのまま手は肩を滑り落ちて背中に回って、背中の真ん中部分に相澤の両の手が集まる。
「そういえば卒業といえば、誕生日ももうすぐだな」
 うん、と頷きながら爆豪も同じようにして、相澤の背中に腕を回す。
 クラスで一番誕生日が早かった爆豪の誕生日は、約一ヶ月後に控えている。去年は何かと慌ただしくて、誕生日からしばらく経った後に相澤に食事に連れて行ってもらった。コース料理の最後に出てきた「ハッピーバースデー! かつきくん」とチョコレートで綴られたプレートは柄にもなく嬉しかったし、カットケーキの上で閃光を弾けさせている小さな花火が、吹き消した蝋燭の火と一緒に消えないことに「オマエみたいな蝋燭だな。なんか、根性が……」と真剣に言うのが面白くて、蝋燭じゃねぇよと笑って返した。本物の花火だと教えると、相澤は面食らった顔をしていた。ささやかな誕生日会だったけれど、いい思い出だ。
「何か欲しいものがあるなら考えておいて」
 改まって言われると、パッとは思い浮かばない。今欲しいものは大体自分で買えるし、特段困ってはいない。それよりもまた、去年みたく楽しく過ごせれば、それで。
「ああ、でもそうか。今度の誕生日に二十歳になるのか」
 相澤の声のトーンが、少しだけ上がった。二十歳、の言葉が持つ響きが特別なことは爆豪も分かっている。二十歳になればそれまで制約されていたことができるようになって、相澤と同じく一人の大人として歩むことになる。
「何かしたいことはあるか?」
 二十歳になったら、と考えて真っ先に思い浮かんだものがある。
「やっぱり酒、とか」
「酒かぁ」
 相澤が少し身を捩ってカウンターのある方へ顔を向けた。爆豪も同じようにして視線を追いかける。カウンターの端にはニ、三本の酒瓶が並んでいた。まぁ興味は出てくるよな、と納得したように相澤は言う。
「でも酒なら俺じゃなくて、上鳴とか切島とか、あいつらと一緒に飲まなくていいのか? そっちの方がこう、盛り上がるだろ」
「アイツらは誕生日遅いからダメ」
「……はは、そうか」
 うーん、と相澤は考える仕草を見せて、分かったと頷いた。
「いいのか? 俺が相手で、本当に」
「いい。……そんで、アンタがいつも飲んでるやつ」
 あそこの、とカウンターの端に向かってくるりと指を差すと、今度は少しだけ嬉しそうな声音でもう一度、分かったよ、と返ってきた。
「楽しみだな」
 爆豪が首をずらして相澤を見上げると、相澤もクッと顎を引いたので、自然と視線がぱちんと合わさった。楽しみだと言う顔が本当に楽しそうで、そんな顔をされてしまえば、一体どちらの誕生日なのか分からない。
 自分たちが何かをするには、うんと時間がかかってしまう。時間がないからこそ、こんなに手間をかけていていいのかと思わなかったこともない。けれども何か相澤なりに考えていることがあってそうしているというのなら、理にかなっているのだろう。
 それにもう一年も、こうして時間の流れのわりにはゆっくりと過ごしている。その間いくつも同じような顔を見てきた。見逃さずにいられたということはきっと、爆豪にとっても相澤にとっても、悪いことではないのだろうなと思う。
 来月にはカウンターに並ぶ酒の味を知ることになる。一体どんな味がするのだろう。苦いのか、甘いのか。美味かったらいいなと期待を寄せて、そうだな、と爆豪も微笑んだ。