春のゆくえ
4月21日
部屋番号の彫られたプレートは、いつ見ても相変わらずだ。突然傷が増えることも汚れることもなく、安定して壁に張り付いている。その下にあるインターホンを鳴らせば、一息つく間にドアが開くことも、変わらない。
誕生日当日を実家で過ごし、そのまま一泊を過ごした爆豪は、翌日は相澤の家に訪れることにしていた。折角の休みなんだから、ずっと実家でゆっくりしても構わないんだよ、と相澤は言っていたが、スマホのスケジュールアプリの誕生日の日付近には、少しだけ余白が設けられていた。去年は誕生日からうんと遅れたタイミングで祝うことになってしまったことを、相澤は少し気にしていたらしい。二人してヒーローをやっている身なのだから、この先も当日に祝えないことの方が多いに違いないのに、それを当たり前にしようとしないところが、厳しくもあり、やさしいなと思う。
爆豪が一言「そうする」と言えば、この余白は相澤の休息になる。新学期が始まったばかりで、仕事は積もるばかりのはずだ。けれどもそれを十分理解している相澤自身が、その余白を爆豪のためにとっておこうとしたというのなら、爆豪はぷつぷつと湧き起こる期待を押し留めず、二つ返事で「祝ってほしい」と返すだけだった。
ソファで待っててと言われたので、爆豪は大人しく待つことにした。拭き上げられて埃ひとつないテーブルには、いくつかのサラダや惣菜が並べられていく。明らかに近くのスーパーで買ってきたものではない。きっとデパートやちょっといいスーパーまで足を運んだのだろう。透き通ったオレンジ色のソースで照り輝くチキンが、とても美味しそうだった。
「勝己、ちょっと来てくれるか」
ふと、冷蔵庫の前に立つ相澤がちょいちょいと手招きをした。立ち上がって近づいて、どうした、と訊く。
「どれを飲むかなんだが、」
相澤の隣から覗き込むと、冷蔵庫の中にはカラフルな缶が数本並んでいた。相澤は缶をクルクルと回し、ラベルが正面を向くように並べた。レモン、ラムネ、マスカット、グレープフルーツ、ホワイトサワー。シュワシュワと炭酸が弾けるようなラベルデザインは、酎ハイだろう。テレビで見たことがある。アルコール度数も三パーセントと記載されているので、低めだ。
「消太さん、酎ハイ飲むんか」
「いや、こういうのはあまり。勝己が飲むには、いいかなって」
相澤はポリポリと目の下を掻いて、照れ臭そうに笑った。どうやら爆豪のためにいくつか見繕ってきたらしい。
「わざわざ?」
「うん、まぁ」
「いつも飲んでるやつでいいって言ったのに」
「そりゃあ初めて飲むんだ、オマエが飲みやすいやつのがいいよ」
惣菜も、サラダも、かわいいデザインをした酎ハイも。それらを選ぶ背中を想像した。思い切りよく直感で選ぶのか、それともじっくり端から端まで見て、その中から選ぶのだろうか。あまり知らない。今度一緒にスーパーへ行って、確かめることにしよう。
「ラムネにする」
「そうか」
「でも、」
「うん?」
「消太さんが飲むやつも、飲んでみてぇ」
あれ、と爆豪はカウンターの端を指差した。ひと月ほど前とラインナップは変わっていない。
「そうだな、約束だったもんな」
相澤は微笑んで、ラムネの酎ハイと爆豪を連れてカウンターに近寄る。
「どうしようか……これは日本酒なんだが、あまり辛くないから、多分この中だとまだ飲みやすいと思う」
持ち上げられたラベルには、純米吟醸と筆字が書かれている。純米吟醸は日本酒らしい。辛いと言ったけれど、酒でいう「辛い」は、唐辛子や花山椒たっぷりの麻婆豆腐を食べた時に感じる「辛い」とどう違うのだろう。水色をしたすりガラスの瓶が綺麗だった。
「じゃあそれにする」
「ちょっとだけな、色々飲んで悪酔いするとしんどいから」
戸棚からグラスを二つ取り出して、ふたりで揃ってソファに腰掛ける。日本酒と酎ハイのどちらから飲めばいいか悩んだけれど、アルコール度数の低い酎ハイから口をつけることにした。プルタブを引っ張り上げれば、プシュッと爽快な音が部屋に響く。昨日ワインを飲んだ時みたいに、缶からはすぐに甘い匂いが漂った。本当に酒か? と首を傾げてしまう。夏祭りで飲む瓶ラムネそのものの匂いだ。
ふいに名前を呼ばれた。缶の口から顔を上げる。
「そういえばこれ、先に渡しておこうと思って」
相澤がどこからか、箱を差し出してきた。渡されるまま、爆豪はそれを両手で受け取る。白色をした縦横十センチほどの硬めの箱だ。何これと視線で伺うと、いいから開けてごらん、と顎をしゃくられる。
「…………キーケース?」
箱の中で幾重にも重ねられた薄い紙を捲ると、中からは黒いレザー生地でできたキーケースが出てきた。本革らしく、レザー生地独特の獣っぽい匂いがふわりとする。ケースの表には、爆豪もよく知っているブランドのロゴマークの金具がワンポイントとしてさりげなくついていて、シンプルなデザインとなっている。大事に手入れをすれば長く使えそうだ。
「中に、この部屋の鍵を付けてる」
「は、」
爆豪は相澤の言葉に目を丸くして、すぐにケースを開いた。これが売り場にあった時はついていないはずの鍵が、リビングの照明の光を吸って銀色にきらりと反射する。
「いつもいちいちインターホン押したりするの、手間だっただろ。俺のいる時間に合わせたりして。これでいつでも来ていいから」
「いつでも?」
「うん。いつでも」
相澤の主な生活拠点はこの家ではなく雄英高校の教師寮だし、たまに風を通しに来ているみたいだが、多分月の大半はこの家を空けている。さっき開けた冷蔵庫も、中はほとんど空っぽだった。来たところで予定が合わなければ会えないし、相澤はきっと気にしないと言うだろうけれど、家主のいない家にあがるのは些か忍びない。だから文字どおりの「いつでも」は少し難しい。それでも、適当なことなんて言わない相澤から「いつでも」という言葉が選ばれたことが素直に嬉しかった。
「……かっけぇ、長く使う」
「そうか」
爆豪の表情を覗き込むようにしていた相澤が、ふっと顔を綻ばせた。
いつかこの鍵を使って、この家を訪れる日を想像した。先に家にあがって家中の窓を開けて、何か食べられるものを作って待つこともできるかもしれない。仕事を終えて帰ってきた相澤とすぐに一杯、なんてこともできるのだろうか。
ほんの僅かな時間にあれこれと未来へ思いを巡らせたところで、はた、と思考が止まった。
「勝己?」
鍵も、かっこいいキーケースも嬉しい。けれども何故か、胸のどこかに、細く冷たい空気が通るような感覚がある。息を吸い込めば、その通り道の形がもっとはっきり分かる気がした。
相澤の顔と、銀に光る鍵を交互に見つめる。
次ここへ来ることになれば、おそらくこの鍵を使うことになる。つまりは、チャイムを押す機会はうんと減ってしまうということで。
今日扉を開けた時、相澤はどんな顔で自分を出迎えてくれただろう。いつものようにすぐに扉が開いたことは覚えている。かけられた言葉は「入って」だったか「上がって」だったか。何も違和感はなかったので、相変わらず緊張の解けた雰囲気でいてくれたはず。だからいつも通りの顔を思い浮かべてみる。
でも今日。今日は一体どんな顔だったか。
玄関でじっと待って、爆豪がチャイムを鳴らせばすぐに開く扉から垣間見える相澤の顔は、あまりに刹那のため、写真に切り抜くことができない顔だ。脳内に微かに浮かび上がる相澤の顔が、まばたきをすればもっと薄れてしまいそうな気がした。もっとよく、ちゃんと見ておけば良かった。
ああそうか、と理解した。自分が思っていたよりも、今日はどのくらい早くドアが開くのだろうかと、その瞬間を楽しみにしていたらしい。
「どうした」
鍵に視線を落としたまま黙りこくってしまった爆豪に、相澤の心配そうな声がかかる。違う。そんな心配されるようなことではない。ただ感情を処理するのに思ったより時間がかかってしまっただけで。心配する相澤に何て返せばいいのか分からないのは、まだ処理をしている途中だからであって。
けれども、なんでもない、と一言で片付けられないのは、それが自分にとってなんでもなくないことだからであって。
「おいで、勝己」
相澤の手が爆豪の手首を緩く掴む。大きな力で引っ張られたわけじゃないのに、くっと一瞬引き寄せるような仕草をされただけで、爆豪の身体は相澤の方へ素直に引かれていった。丸められていた背中を少し伸ばした相澤と向かい合わせになるようにして、膝に乗り上げる。今はまだ活動時間中だから、相澤の右脚は義足が支えている。でもあまり膝に近すぎるところに跨るのはよくないかもしれないと思い、相澤の太ももの中間あたりに腰を下ろした。腰骨の後ろで、相澤の腕が結ばれる。
さっきよりもうんと近づいたせいで、視界いっぱいを相澤が占めた。何か言わなければと口を開いたけれど、何の意味も持たない音しか出ないことは分かった。
「いい、焦んなくていいよ」
相澤の黒い瞳に、自分の姿が映る。したい顔とは裏腹な自分の表情を見ていたくなくて、爆豪は相澤にしがみつくみたいに抱きついた。
好き、だとか、お疲れ、だとか、久しぶり、会えて嬉しい──抱きしめる、という行為が、たくさんの想いを共有できる手段の一つだということは、爆豪は十分に知っていた。何かきちんとした効果が証明されているのかは分からないが、言葉と行為が一緒になった時、その相乗効果はとてつもなくすごいものだと、相澤と一緒に距離を縮めてきたこの一年でたくさん体験してきた。言葉や行為だけの時には伝わらなかった何かまでが、伝えられるような気もするし、伝わってくるような気もする。
けれども今、ぎゅうぎゅうと目一杯力を込めて抱きしめてはいても、爆豪は自分の感じていることが伝わっているとは思えなかった。合鍵をもらえて嬉しい。時間がない中、キーケースを見繕ってきてくれたことが嬉しい。実はドアが開かれる瞬間が楽しみだったのだと。そしてそれが減ってしまうことが少し寂しいのだと。
上手く言えたとは思わない。けれども言わなければこれ以上伝わらない。とりとめもない言葉たちをそのまま素直に吐き出した。
「勝己。なぁ、勝己」
いつの間にか相澤の肩口に額をめり込ませるようにして俯いていた爆豪を、やさしい手がそっと剥がす。顔見せて、と両頬を掬われるまで、剥がれてもすぐに顔を上げられなかった。
「あのな、」
相澤は眉尻をへにょ、と落として口を開いた。困ったような、観念したような、でも嬉しさを滲ませた、そんな表情だった。
「俺もちょっとだけ、同じこと思ってた」
「え、」
思いもよらない返答に、思わず爆豪は目を丸くする。
「鍵についてはいつか渡したいとは思っていたから、用意している時はとくに何も思わなかったんだが……いや、受け取ってくれるかどうか、とかは考えたけど」
慎重に紡がれる言葉たちを、爆豪は黙って聞く。
「いざ渡してみると何だか、惜しい、というか」
相澤の言葉が一度途切れた。何をどう言おうか探っている。
「勝己の言うとおり、下のインターホンを受け取った後、大体いつもすぐに玄関まで行ってたし、もうすぐかなって思いながら待ってたよ」
「……ん」
「開けたらいつも、オマエは何て言うかなって」
もうそれ以上は言われずとも想像できた。
同じだった。けれども知らなかった。いつも見逃さないように相澤のことを見ていたはずなのに、爆豪は知らなかった。
どれだけ丁寧に自分たちが触れ合いを重ねても、分からないことはある。危うく、ふたりとも通り過ぎてしまうところだった。
思わずもう一度、爆豪は相澤を掻き抱いた。首に擦り寄って腕に目一杯力を込めれば、背中に同じだけの力を感じた。
「たまにはインターホン、押してくれ」
相澤はふっと笑った。肩にかかる重みがいっそう増す。
「押したら、すぐ開くか?」
「うん。待ってる」
ずっと握りっぱなしだったキーケースはすっかりぬるい温度に染まっている。あとで自分の家の鍵も一緒にぶら下げようと思う。
ほとんど同時に腕から力を抜いた。少しの名残惜しさを残してゆっくり離れる。
あまりにもゆっくり離れすぎたのか、視線を持ち上げると、思ったよりも相澤の顔が近くにあった。目尻にはやさしげな皺が寄っている。
そして何となく気づいた。根拠はない。
けれどもこれは、たぶん、キスの距離だと。
何せ二十歳だ。もう一歩、自分たちは進んだところに行ってもいいと思う。待ってばかりのこの人のところに、早く行ってやりたい。手を繋ぐことと抱きしめる以外の方法を知りたい。そう思った。
抱きしめた時とは違う、明確な意図を持って爆豪は顔を寄せた。鼻の先が相澤のそれにかすかに触れたところで、一呼吸置く。いつも相澤がやってくれているみたいにして、視線を絡ませる。
「いいの?」
相澤の黒い瞳の奥が、チリっと光った気がした。今までで一番、顔が近くにあるから見逃しはしなかった。いいの、だなんて。顔を近づけたのは爆豪の方だ。
でも相澤がこれまで、一つ一つ丁寧に手順を踏んできてくれたから、こうしてキスをする直前の表情を眺めていられる。期待と、緊張と、高揚がないまぜになった、なんとも言えない顔をしていた。相澤の瞳の奥に見える自分の顔も、似たようなものだ。
いい、と頷く。頷けばうっかり唇が触れてしまいそうになって、慎重に顎を引く。ふ、と吐息だけで相澤は笑った。唇の先を掠めて、少しだけくすぐったい。もう考えるだけ無駄だ。
息を吐く。そしてそっと半分くらい吸って、そのまま息を止めた。目を閉じる。キスをするときは目を閉じるものだと誰に教えてもらったわけでもないのに、身体は自然とそうなった。相澤が動く気配はない。目の前で、じっと待っている。
首を前に押し出した。あっけなく唇どうしが重なりあう。
柔らかさ、とか、温度、とか。そういうことはすぐにはよく分からなくて、ただ「ああ、重なったな」という事実でいっぱいになる。僅かに息苦しくなって爆豪が身じろぐと、唇が少しずれて反動を受ける感覚に、そこで初めて、唇がやわらかいことを理解した。
どちらからともなく唇が離れて、同時に目を薄く開けた。すぐに相澤と視線がぶつかる。
「はは、」
相澤は一つ熱い息を吐いて、片目しか残らない目元を手で覆った。大きな手だ。顔のほとんどが覆われてしまったせいで、どんな表情をしているのか分からない。もしかしたら何かやらかしてしまっただろうか。
「…………なぁ」
漏れた声は、自分で聞いても拗ねたような、情けない響きを持っていた。
「いや、ちょっと。ちょ、ちょっと待ってくれ」
相澤はやや慌てたような声を上げた。さらに俯いたせいで長い黒髪が垂れ、形のよい耳が髪の隙間から顔を出した。そこは茹でたように、触れればきっと熱いことが分かるくらい、真っ赤で。
「まさか……は?」
「…………ぐ、」
「おい、手ェどけろ今すぐ」
「やめろやめろ、ちょ、」
「なぁ、消太さん、見せろって」
「………………どうかご勘弁いただきたい」
爆豪がやんわりと手首を掴めば、勘弁、というわりに存外あっさり解かれた。ぐ、だか、ぬぅ、だかよく分からない唸り声をあげている。気を抜けばどんな顔になるのか分からないのか、眉間にものすごく皺を寄せて、泣かない子も黙ってしまいそうな険しい顔をしている。けれども耳は分かりやすく真っ赤で、つまり、相澤は照れているらしかった。
「いやなんかもう…………なんか、すまん」
居た堪れなさを全面に押し出したような蚊の鳴く声に、爆豪は思わず笑い声を上げた。正真正銘ファーストキスである自分よりも盛大に照れている大人が、たまらなくかわいく見えて仕方がない。この顔はできれば写真に撮っておきたかったけれど、あいにく今手元にスマホはないし、片時も見逃したくはなかった。それにスマホがあったって、シャッターを切る手間すら惜しい。こんなにも近くにいるのだから、姿を目に焼き付けるだけでなく、匂いや温度のひとつひとつまで、何一つ取りこぼさずに感じていたい。自分たちはまた、一歩進んだのだと。数年たって、振り返って、あっという間だったと言うであろうその時に鮮明に思い出せるように。
はぁ、と相澤が一つ呼吸を落ち着かせる。
「落ち着いたかよ」
「勘弁してくれ」
ふふ、と力の抜けた笑いがふたりの間に落ちる。
「そうだ」
「なに」
「勝己、誕生日おめでとう」
「今かよ」
せっかく落ち着けた笑いが、また戻ってくる。どうして耳がそんなに赤いのか、理由を聞かなければならない。でもそれはもう少し後にしよう。緊張はもうなくて、多幸感と達成感が身体の中で勢いよく混ざり合ってる。二十歳の誕生日は、楽しく過ごせたらいい、と願っていたとおりの日になりそうだった。
Fin.
2025.01.01