子供の領分
うなじに掛かっていた髪を雑に掻き分け、首筋を撫でた。しっとりと汗ばんでいる肌が外気に触れ、すうっと心地が良い。ずっと待ち望んでいたはずの穏かな陽気は、春を通り越して夏の気配すら感じさせてくる。
とはいえ、週末はまたぐんと気温が下がるらしかった。天気予報では「冬の厳しい寒さが戻る」とまで言っている。今日の最高気温は二十度超え、最低気温も十度は上回っている。にわかに信じがたいものだ。三寒四温というやつだろうか。まだ冬物は仕舞えなさそうだと思いながら、相澤はテレビの電源を落とした。
教員寮の外に出ると、角のない丸い風が相澤を包んだ。このやわらかな風は春のものだ。気温は高く、スコンと抜けるような晴天は夏にも似ているが、やはり待ち望んでいた春である。相澤は視線を上げ、校舎に沿うように整然と並ぶ植木を眺めた。遠目からはハッキリと見えるわけではないが、枝の先々は白っぽく、うっすらと生命が芽吹き始めているように見える。順調にいけば、新学期が始まる頃には満開の桜並木となるだろう。もう数え切れないほど眺めてきた雄英高校の桜並木は、相澤が生徒だった頃から変わらず、ずっと見事なものだった。週末の寒さをどうか耐えてほしいと、心の片隅で小さく祈る。
しばらく歩いて、相澤はハイツアライアンスの扉を開けた。普段は賑やかすぎるほどの生徒の声が聞こえてくるが、明かりは落とされ、エントランスやダイニングはがらんとしていた。生徒たちは学生最後の春休みとして、三日ほど前から順に帰省しているからだ。春休みとはいえインターンなどで忙しく活動している生徒もいたが、昨年は大戦の最中でそれどころではなかったし、せめて数日は親元へ帰省できるようにと、関係各所と調整することが相澤の冬休みの宿題だった。その甲斐あってか、みな無事に予定通り帰省することができ、そして今日は最後のひとりが帰省する予定だった。
「あ? なんで先生がここに…………」
控え目な足音に振り向く。ボストンバッグとジャケットを片腕で抱えた爆豪がこちらに向かってくるところだった。いつもと雰囲気が違うように思えるのは、見慣れない私服姿だからだろう。
「施錠しに来たんだよ。なんだ、まだ帰ってなかったのか」
「ウルセェ奴らがいねぇから、春休みの課題が捗って仕方なかった」
「ほー、優秀なこったな」
「ハッ! トーゼン」
爆豪はバッグを床に置いて、ギブスをはめていない左腕にジャケットの袖を通し、右腕は肩に引っ掛けるようにして、器用にジャケットを羽織った。ずいぶんと慣れた動作だが、ここまでくるのには苦労がなかったなんて言えない。クラスで一番入院生活が長かったうえに、元々の気性も相待って、誰よりも歯痒い思いをしているはずだった。現に未だ、かっちりギブスで固定された右腕はほとんど動かせない。
「もうこのまますぐ出るから。バス来ちまうし」
バッグを拾い上げようと屈んだ拍子に、爆豪の右肩からジャケットがずり落ちた。垂れたジャケットをまた器用に羽織るも、少し屈むだけでまた地面に落ちる。何度かそれを繰り返して、爆豪は苛立たしげに小さく舌を打った。
その横顔は、この一年間何度も見てきたものだった。垂れたジャケットの袖口が、彼の気も知らなさそうにぷらぷらと揺れている。それを疎ましげに睨みつける爆豪の視界に、相澤は映っていない。
分かりやすく助けを求めてくれたり、子どもらしく弱音を吐いてくれたり、頼ってくれたらどれだけ楽だろうか。そう思ったことは数知れない。教師とヒーロー、それぞれにとって願ってもないことだ。だって現実は全然、楽なんかじゃない。生徒も、爆豪も、相澤のために在るわけではないのだから。
あとどれだけ、目の前の子どもたちに何をしてやれるのだろうか。何ができているのだろうか。爆豪たちが相澤の元にいる時間も、一年丸ごと残っているわけじゃない。三年生はより忙しくなるし、学校を空ける日も増える。予想を超えるスピードで、生徒たちはぐんぐんと成長していく。考えれば考えるほど次々と溢れてくるのは、焦燥に似た感情だ。
「今日は外、すごくあったかいぞ」
爆豪の視線が大きなリビング窓の外へと移った。昼間の明るい陽の光だけを受けた瞳が、眩しそうに細められる。そしてそのまま相澤と視線が合うと、ほんのりと口角を上げた。
「だろうな。つーか暑そう」
「え?」
「だってセンセー汗かいてるくらいだし」
「あ」
相澤が慌てて自分のこめかみをなぞると、爆豪は満足そうに笑った。そしてずり落ちたジャケットを丸めて、バッグの中へ押し込む。あのジャケットはまだしばらく、外の陽気を知らないままだ。
「じゃあ、帰りマス」
膨らんだバッグを持ち、相澤を凛と見上げた爆豪が言う。表情がさっきよりも少し大人びている気がした。
「はい、気をつけて。くれぐれも無茶なトレーニングなどはしないように」
「わァってる! 大丈夫!」
扉を開け、校舎の方へ向かって大股で歩く爆豪の背中を見送る。その背中が角を曲がって見えなくなってから、相澤はハイツアライアンスを施錠した。セキュリティの作動音を確認して踵を返す。
何をしてやれるのだろう。何ができるだろう。そんなことばかり考える。しかし立派なことができるわけではない。今だって、気をつけて、と祈るだけだ。
それでも、彼らの行く末の足しになるのならと思わずにはいられない。それに、相澤が何をしてやれたかなんて、桜が咲くよりもうんと先にならないと分からないものだ。そのためには爆豪が、生徒たちが無事に帰ってくることを信じて待ちながら、彼らが最大限に成長できるよう、新学期のカリキュラムを練るとしよう。
新学期まであと数日。まだ静かな桜並木は、彼らの帰りを今か今かと待ち侘びている。
Fin.
2025.03.30 出番45無配
2025.09.23 Web再録(加筆修正)